FB投稿からの一歩先投稿をします。
飲食店は敗者復活産業
僕はバカだった。勉強もしなかったし中学校にはもう給食食べにだけ行ってる様な感じだったんです。とりあえずまだ仕事はしたくなかったしバカでも受験すれば受かる高校があったので進学しました。
(5教科平均50点でも面接でそれなりの日本語が話せて、身なりがしっかりしていれば受かる高校w)
まぁとりあえず行っているだけw朝からゲームセンターに行き昼まで遊んで学校いってお弁当食べて暑いから藍川橋の下で泳ぎました。そんな毎日。当然進学できるわけもないかと思いきや単位3教科落としての仮進級w4教科落とすと留年です。
しかしなんとか進級した僕の各単位の補充時間は280時間にのぼりましたw当然昼からしか行かないので今度は2年の補充時間も増えていきますwでもその高校は二年生の1月に修学旅行(スキー研修)があったので遊びたかったし、とりあえずは在学。
スキー研修のお話はまたまた無茶苦茶で面白いですが長くなるのでまた今度。スキー研修が終わっていよいよ3年生に進学…できるわけもなく(補充時間600時間W)
自主退学となりました。退学するとき校長先生が握手してくれたのを覚えていますw(やめて欲しかったのか?w)
就職
退学後(16歳)すぐにゴルフ場のレストランに入りました。アルバイトです。別に真剣に仕事をしたいわけでもなく、ただ親が飲食だったので真似をしただけです。朝9時からお昼15時までのお仕事です。ゴルフ場なので夜の営業がないんです。その時のチーフはよく「お昼に仕事が終わる飲食店は初めてだ」と言っていました。
半年ほど勤めたぐらいだったかな?チーフに「こんなところでは勉強にならんから割烹料理やにいけっ!!」と言われて渋々転職。
岐阜のとある有名割烹料理店に就職しました
もう地獄の始まりでしたwだって3LDKに12人住んでいる寮で暮らせというんですw先輩は女連れ込んでるし、お風呂は12番目だしもう嫌ってことで電車で通勤、始発、終電の日々の始まりw始発は5時30分、終電は12時でしたね。上司は意地悪でよく下駄で脛を蹴られました。それまで生きてきて初めて人に殺意を持ちましたw結局しませんでしたがwそれでもなんとか2年半ぐらい続けました。
ある時鰆の西京焼の仕込みに(たまにFBにてレシピアップ)
先輩が冷凍庫と冷蔵庫を間違えて冷凍保存していたんです。
その店では西京味噌と調味料を手で練っていたんです。マイナス20度、手で練りました。冷たいというよりもう痛い!!でも「根性だ!」なんて言われて20分練りつずけた結果手がね凍傷で2倍に膨れ上がったんです!
もうおばけですよwしかもパンツも靴下もはけない。お母様に履かせていただきましたw全治2ヶ月、先輩は勝手に自分でやったの一点張りw
あとはね先輩が吸ったタバコを目に入れらましたねw濡れ衣ですw
いや、過去にタバコの葉っぱが目に入ったのはこの時だけかと思いますが結構痛いですよwとりあえずは眼科に行きました。んでねやっぱ手が出るんですね。間違えたw思いっきり蹴りましたwここでさようならwまあ僕もあんまりやる気なかったし。
次に行く前に割烹料理屋(僕が勤めていた)の一日をご紹介いたします。
僕が居た割烹料理屋さんは職人5人、アルバイト一人の6人で回していました。立ち位置は、マスター(煮方、焼き方)、脇煮(煮方の補佐)花板(刺身を引く人)、脇板(花板の補助)、追い回し(文字通り)洗い場(アルバイト)の6人です。店の大きさはカウンター6席、テーブル4名掛けが3つだけの小さなお店でした。
この小さなお店のカウンター内に5人もの職人が入って仕事をしていたわけす。朝、追い回しから出勤。朝6時ぐらいでしょうか、まぁ始発でしたのでこのぐらいでしょう。朝一番のお仕事は出しを引く事です。かなり大量に引くので水からだと1時間はかかります。
脇煮が来るとコンロを占領されますのでその前までに引き終わらなければいけません。出しを引きながらデザートを任されていましたので本日のデザートを作ります。出しが引き終わると順々に、脇煮、脇板、花板、マスターの順に出勤してきす。
もうここからは戦争です。あちこちから仕事が回ってきます。特に花板は(味噌をねらされた先輩)店に来るだけで空気が変わる嫌な先輩でしたw仕込みが終わるとランチの営業です。コースのみの営業で確か¥5000、¥8000、¥10000だったと思います。
追い回しののお仕事はマスターと花板の指示を受けて動くお仕事です。二人から鬼のように指示が飛びます。双方二人同時に指示が出るのでどちらを優先するか迷いますwだいたい毎日10名様ぐらいの集客でした。
全ての料理がで終わると夜の仕込みと賄いを作り始めます。賄いといっても食材は椎茸の軸とか、人参の皮とかそんなものばかりです。お肉なんて使わせてもらえませんでした。
また和食はニンニク禁止です。店中に匂いが残る事とまな板に匂いがつく事を極端に嫌います。ですから食事のメインなんてものはないんです。だいたいお吸い物と卵丼、チャーハン、卵ご飯(卵ばっかり)でしたね。それでもって食事中は花板の先輩が常に僕の前で腕を組んでみています。何を見
ているかと言うと、箸の持ち方と食事のスピードです。ストップウォッチ持ってたんですよwその根性すごいわw(箸の持ち方治ってよかった?感謝)お昼からの仕事はまた明日
割烹料理午後のお仕事
午後といってもご飯を食べたら15時ぐらいです。20分ほど休憩をするとすぐ夜の仕込みに入ります。
(休憩なしはザラ)
6時開店でしたので3時間みっちりです。これまた4時には先輩がもでってくるのでそれまでには自分の仕事を終わらせ得る必要があります。
夜は¥8000、¥12000、¥15000だった記憶があります。仕込みが終わると営業9時までをこなして片付け、また仕込みです。飲食店は片付けがかなり大変です。これは今でも一緒ですがここが普通のお仕事とは違うところですね。
ざっくりですがまな板5枚洗う、シンク5ヶ洗う、コンロ洗う、冷蔵庫拭く、食材を管理しているバット、タッパの総入れ替え、食洗機洗う、ビールサーバー洗う、酒燗機洗う、換気扇拭く、調味料系拭く、床洗う、お酒類発注(項目40以上)食材発注(項目80以上)レジ閉め、日報です。だいたい2時間ぐらいはかかるんです。
それが終わると次の日の仕込みをします。(1時間ぐらい)晩御飯は?その頃食べてなかった気がしますwそのままダッシュで電車に駆け込みイン!!という感じでした。一度終電寝ちゃって終着駅まで行ってしまったことがありますw
実はその日は給料日前で1000円ぐらいしか持っていませんでしたwお金足りません。無人駅で車掌さんに理由を話したら元降りるまでの電車賃で勘弁してくれましたw(よかったW)
しかしねぇ〜帰る手段がないんですよw終電だったもんwてなことで自宅に電話w祖母が迎えに来てくれました。しかし次の日も早く起きる自信がなくてまた店まで送ってもらったんです。2時間ぐらいかかりましたw(店で寝ていけばよかったw)
その後はもう大分なグレーなお世界で4年ほど遊びまくりました。
グレー?いや、もうブラックですよ。真っ黒です(ちゃんと仕事もしましたよ)
どんなお仕事?
掃除屋さん、現場監督、パチンコの…、とにかく色々です
ここの経験を記事で書くと批判が出そうなのでぜひ直接僕に聞いてくださいw
人様にご迷惑も沢山かけました。警察の御用にもなりました。そんなある日、ぼーっと家でしていたらお袋が
「そろそろしっかり働きなさい!」何て言われて、職安に行ったんです。いろいろ探していたら一番最初の割烹料理屋の親父がよく連れて行ってくれたお店が(居酒屋)募集をかけていて、なんか好印象だったんです。
すぐ電話をすると明日にでも面接に来てくれってことで、急いで床屋に行ってスーツはなかったのでなるべくおとなし目の服を着て行ったのを覚えています。なんかね人手不足だったのかな?すぐ採用で二日後には初出勤しました。今までは誰かのコネで仕事を見つけてきましたが全然知らない職場に行くのは初めてです。
今思えば最初は何もできなくてどうしようもなかったと思いますw
もう昔の修行時代は半端にしか勤めていませんでしたのでまず作業ができませんでした。魚のおろし方も忘れていたし何から何まで1からです。新鮮だったなぁ〜!正直楽しかったです。
半年後…病気になりました(涙)
なんたら肝炎ってヤツです。突然お酒が飲めなくなりあれ〜なんか体おかしいぞ!そのうち体がひどくだるくなっていきました。調子が悪くなって1週間ぐらいたったころ、夜忙しい営業を終えるともう立てなくて祖母に迎えに来てもらいました。
なんかおしっこが相当濃いんです。オレンジ色…次の日の朝大きい病院に行って「おしっこがおかしんです。」というと泌尿器科に連れて行かれました。
先生
「尿検査は異常ないですね」
僕
「いや!絶対おかしいんです。もう少し検査してください!」
先生
「んじゃ採血だけしてみよう」
(ちょっと面倒くさそう)
結果
奥で看護婦さんが奥で電話しています
「今すぐ入院しないといけない患者様がお見えです」
もう一人の看護婦さんが僕に
「心配しなくても大丈夫ですよって」
嘘つけ!!明らかにやばいじゃないか!!
その後先生が説明にきました。
「今すぐ消化器科の先生のところに行ってください、看護婦が案内いたします」
だからさぁ〜なんで看護婦付いてくるの?
逃げないため?
なんて思いながら消化器科へ採血の結果こんな感じでした。GOT,GPTという肝臓の細胞が壊れると血液中に流れる量をの数値が普通一般的に20〜30がふつうなんですよ。これがな、な、なんと3400だったんですw
「あんた死にますよ!」(先生)
(全然大丈夫じゃないじゃないかw)
何て言われて即入院、しかも集中治療室。
隣でおじいちゃんの心音だけが聞こえるお部屋です。
もうね失礼ながら俺も一緒なのかって泣けてきました25歳w
とりあえずは絶対安静で面会時間は一時間のみ。
お袋、祖母が来てくれたかな?
あんまり覚えていない。
外に出る時も車椅子です。
集中治療室の人は絶対らしい。
その時の担当看護婦さん、顔はとてもタイプじゃありませんでしたw
でも自分の仕事が終わると必ず2時間僕の隣にいていろんなお話をしてくれました。
車椅子で外まで連れて行ってくれたり。
もう天使ですよ本当に。
でもタイプじゃなかったw
タイプだったら結婚してたんだろうw
そんななんなで2週間後には普通病棟へ
そのなんたら肝炎でした。よく説明を聞いたら治らないことがわかりました。
だって完全治癒の確率が一本5000円の注射を週二回、一年間治療をして5パーセントの確率で治るっていうんです。
しかもその注射を打つとインフルエンザと同じ症状が出るんです。
週二回インフルエンザでしょ、髪の毛は抜けるし、鬱にもなるんです。
(はぁ〜うそでしょ)
でもまぁ二ヶ月後に退院。
その頃には数値が70ぐらいまで落ちていました。
でもこれが持続するんだって、涙
10年後にはこのままだと死ぬと言われました。
通院しながらの仕事が始まります。
治療しながらの通勤、本当にしんどかった。
朝市場に6時、9時に仕入れを終わらせてそのまま町医者に行きました。
抗ウィルス剤を投与して熱が上がってくると1時間寝ます。
その後起きて熱冷ましの座薬を入れてから出勤。
12時半から仕込みを始めて4時半に食事、5時より営業スタート、体がだるくてお客様にも何を話していいかわからないぐらいテンパってしまうんです。
一升瓶のお酒をなんだか力が入らなくて落っことしまったり。
(当然割れます、そして叱られます)
(あ〜もうやだな、休みたいな〜)って思ってしまうんです。
ただ2ヶ月の入院生活をしていたのにお店は僕のポジションは店長が社長に吉田は(今は西山です)必ず戻ってくるのでと伝えていてくれたらしく空けておいてくれたんです。だからね、頑張りました。夜終わるのは12時ぐらいでした。また次の日朝から仕入れです。
そんな毎日が続きました。
でも三ヶ月通院した所で先生がね!!!「治ったから来なくていいよ」
って言ったんです!!!
う〜ん何かついてるねw僕は神がついてるw
てな事でただただひたすらに働き始めました。
また割烹の頃の生活に逆戻り、でも何か楽しいんです。
自分の仕入れで料理を作って、眠いけどこれが自分の価値かな?と
まぁその時の店長が僕のわがままを許してくれたからですが。
仕入れは全て僕がしていました。任せてもらえたんです。
もう無茶苦茶ですよw勝手に本鮪の大トロ15キロ買ってやりました。
10万円の買い物ですw
客単価2500円の店なのに。(大衆居酒屋)w
僕には料理を教えてくれる人はいませんでした。
だって一年でチーフになれたからです。
料理長ですよ、トップだから教える側です。
毎朝6時に市場に行って知らない魚があればとりあえず買う!!
帰りに図書館にによってひたすらに調べてその後仕込みに入る毎日、分からない
って言うのが妙に嫌だったんです。
今はもうないプライドですwとにかく楽しかった!!
そんなある日の事、スタッフ数が少なく店長が休みの日があったんです。
そんな日に限ってお店は大爆発しました。
もうね、料理なんて出ないんです。オペレーション不足でしたし何より人が全く足りていないんです。
この時に思った事!!!!
もう笑顔で断ろう!とにかく笑顔で!
そしたらお客様が
「飲むだけで料理は待つからいいよ」
ってたくさんの方が言ってくれたんです。
ドリンクだけはすぐに出せるようにして料理は本当に遅れました。
でも誰も怒りませんでした。(本当は絶対ダメ)
でも一つ気がつきました。
あぁ喜んでもらうの気持ちいいなぁ。
もっといい店にしよう!って
2年後、新店の店長の役が回ってきました。
初の立ち上げです。
もう本当に自分の店が出来たって喜びました。
ちなみにこの頃女房と結婚するんだろうなぁ〜って思ってました。
開店3ヶ月ぐらいは売り上げも順調、しかしある時突然暇になったんです。
理由はきっと僕の傲慢だったと思います。
美味しい料理を作ってお客様に
「どうだ!うまいだろ!」
って思っていたから。
平日は待てど暮らせど集客なし。
このままだとスタッフの給料も出ませんし何より僕の給料をいただく事が申し訳なく悩みました。
悩んで悩んで出した結果……
サービスだ!!!!!
ということでサービスの本を買いあさりました。
リッツ、ディズニー等々、
毎日仕事終わりに店で読んでました。
これで得た知識をすぐに実践。
まずお客様を名前で呼ぶ…
僕は常にカウンターの中で仕事をしています。
上着などのお召し物をお預かりした時スーツの方は内っ側に名前が入ってるんです。それをアルバイトちゃんが見て僕に名前をこそっと教えてくれるんですね。初めて会ったお客様を名前で呼ぶ事ができるんです。お客様はびっくりするんです。そして喜びます。やりすぎじゃない?ってよく言われました。でもね、怒る人はいなかったんですよ。
年賀状を手書きで書く
もうこれは絶対喜んで頂けます。
そしてこれには本当の理由がありまして。
書く時にお相手の事を思い出すんです。
久しぶりでお会いできていない方の事をしみじみ思うんです。
するとこの年賀状をきっかけにご来店いただいた時、僕自身が嬉しくて態度に出るでしょ。
そんな僕を見たお客様はここに来て良かったって思うんですね。
テーブルを見続ける
テーブル見てると何をお客様が欲するかすぐ分かります。
ドリンクが無くなってメニューを開いていれば必ずドリンクを頼みます。
これを知ればこちらからアクション起こせます。
お客様は呼ぶ手間が省ける、スタッフは前もっての行動ができるので詐欺業効率が格段に上がります。
またミスも減りますね。
等々色々やってみました。
スタッフにも色々伝えました。
結果
売り上げどんどん上がって行ったんです。
そんでもってお客様も喜んでくれたんです。
もう売り上げ少なくてもあげる方法知ったしなんとかなっていくと自信を持ちました。
店長職になって4年ぐらいが経った時
もうね自分で店ほしくなっちゃったんです。
根拠はなくてとにかく自分の店が欲しいって。
(今若者が同じこと言ったら必ず止める)
出店の準備について
場所
人
お金
まず、場所ですね。前話の居酒屋を退職する半年前、今の喰快の場所を見つけました(上司に教えて頂いた)そこには居酒屋がありまして営業していたのですがどうやら辞めたいということで、どうしたらいいか考えました。
結果その店に通い続けたんです。
ただただ飲みに行くだけです。物件のお話は無しに。
その居酒屋は夫婦で経営されておりましたがお二方とっても気さくな方ですぐに色々なお話をしながら飲んでいました(毎週)
もちろん僕の素性も話しましたし半年後やはり僕に声をかけて頂けました。
まあ多少のお金を渡しての買い取りでしたが納得です。
まぁよく考えてみたんです。
全然見知らぬ人とお金のやり取り、物の売買するのは(高額)やはり構えてしまうんですね。
不動産屋も仲介にはいませんでしたし。
とにかく仲良くなろう、お話はそれから…という感じでうまいこといきました?
開店準備金
独立を決めたのは結婚してから2年後でした。
家内と生活を始めた当初二人ともお金がなくてゼロからのスタート
でした。
もちろん共働きでかなり大変でした。
でもその当初から家内には2年で500万貯めろ!って言いました。(むちゃくちゃですw)
お小遣いは一万円、車も所有していませんでした。
3万円ぐらいの自転車を買ってもらいました。
2年経った時家内に聞いたんです。
僕「ちゃんとお金あるの?」
家内「一緒に数える?」
えっ?タンス預金?
ダンボールに入ったお金を二人で数えました(あぶねぇ女やなW)
(ちなみに今は銀行に入れてますW)
400万ぐらい有りました。
僕「お前凄いね」
家内「まあね」
目標までは達していませんでしたが(きっと別にも、持ってたと思う、全部渡すわけがないw)
これでなんとかなると思い銀行にいきました。
しかし何かは起きますw
家内が事故をしました。人身です。
幸いお相手に大した怪我はなくて一安心。
もちろん保険も入っておりましたしよかった!!
と思ったのもつかの間、罰金がきました…75万、まじで?どしよか?でも払うしかありません。
そして今度は僕、結婚生活がはじまる前僕は家族に給料の6分の5を入れていました。これで僕の生活費と携帯代、税金など宜しくねって。
残ったお金はあげるよという感じ。
そしたらここに来て市民税未納通知が来たんです。
はぁ?なんで?金額は60万…払うしかありません。泣けてきます。
残ったお金でなんとかするべく銀行へ。
そこでのお話は国の金融機関と併用で借りましょうと言うことでした。
双方話が進んでいきよう感じ。
まぁなんとかなるかと一安心。
実は新開業のとき、運転資金というのは銀行、国の機関は貸してくれないのです。
設備投資のみの借り入れです。
残ったお金は取っておく必要がありました。
でも、物件契約に大量のお金が入ります。
家賃✖️5ヶ月分です(150万)
もう大丈夫かとおしっこちびりそうになりました。
でもまぁ銀行融資は下りて、後は国の金融機関のみとなりました。
担当の方も「まあ大丈夫ですね」と言うことでしたので、安心しておりました。そして工事が始まります。
最初に工事費用の3割を入れなければいけません。
銀行の融資よりお支払いして、1週間経った頃。
国の金融機関から書類が届きました。
融資なし…
はぁ?今更何言ってんの?
工事始まってますよ!!
すぐに電話しました。
でもね分かってはいましたがダメなもんはダメ。
どうしよう400万足りない。
あと3週間でなんとかしなければ!
ってかなんとかなるのか?この金額。
悩んで、考えて、もういいや!!
誰かに借りよう。(無理に決まってる)
手当たり次第に電話しました。
そしたらね4件電話しましたが3件の方が全額じゃなかったらということで貸してくれたんです。
知り合い
お客様
バイト先のオーナー
(一年半で全部返した)
世の中にはいるんですね。天使がw
なんとかオープンまでの資金繰りはなんとかなりました。
でもオープン当初すっからかんでしたw
人について
人については二つの問題がありました。
一つはスタッフ、一人はチーフとしての入社が決まっていました。
お店んキャパ的にはもう一人社員が欲しいところ。
アルバイトもいませんので募集をかけました。
某アルバイト雑誌お金もなかったのでとりあえず一番安い枠で。
今では考えられませんが1週間で120回電話がなりました。
その頃は(6年前)かなり中国の方が見えましたので半数はこの方です。
言語から教える時間もなく日本の方優先に面接しました。
新規オープンの時はお金がないのでスタッフをより多く持つことが怖く慎重でした。
社員枠1人、バイト枠5人の計算でした。(これでは足りない)
面接を順に終えて、無事社員も獲得(5人応募がありました)
うーん順調?
もう一つの問題はお客様がお見えになるか?
ここが一番心配でした。
おしっこちびりそうです。
ただ8年この街で勤めていましたので、顧客様を持っている自身はありました。
前回のお話に出てきた、年賀状作戦です。
顧客様の名刺を持っていましたので全ての方に手書きでDMを送りました。
販売促進はそれしかしていません。
2010年6月8日、喰快はオープンいたしました。
実はオープン告知15日にしてあったんです。
レセプションなしにしてぼちぼち始めようなんて思っていたからです。
そしたら8日当日…お花がぼちぼち届くわけです。
あれ?なんでだろ?
世の中のことよくわかっていなかったので噂は広がる事知らんかった。
オープン5時、6時までに満席になりました。
もう無理…回りません。料理でないし、ドリンクもほんとごめんなさいの営業、
ほんと疲れたくせに何もできなかった自分たち。
お客様来てもらえて嬉しかったのに結局何もできない。
それでもガムシャラでした。
次の日からは多少落ち着き色々話し会いながら改善していく時間もできました。
そして6月15日、本ちゃんオープンお花の数50は超えていたと思います。
びっくりです。
一人はお花の受け渡しを5時のオープンまでし続けました。
その日もね満席でした。
キャパ50席が2回転です。
もうとりあえずはホッとしました。
そして感謝の気持ちがいっぱい?
その後はもう何も考えずに頑張りました。
初めての12月を迎えました。
少し話がズレます。
ずっとバタバタだった半年、ん?一年?
祖母の体調は著しく悪くなっていっていたんです。
子供の頃からずっと食事を作ってくれていた祖母。
いっぱいあるけどもう本当に思うのは俺の母かと…
12月に最後のときをを迎えます。
実は僕の旧姓は吉田なんです。
この頃の2年前に母方の母親、今の話の祖母の養子に入ったんです。僕が思っていたことは…もうね俺が家族ひっくるめて守るからいいよ。
20年前家族で一緒に暮らしたことなんて思い出に変わってしまいバラバラになったわけです。
最後に祖母が託した子孫繁栄の思想は僕に受け継いで欲しいことをを認識していたんです!
んでね。
12月10日祖母は他界しました。
(悲しいお話ごめんなさい)
三日前ぐらいから病院に泊まりました。
仕事終わってからの病院、生活は変わりませんので朝7時から仕入れです。
でも人間なんてこんな時別にきついとかどうでもいいんですね。
力が無くなっていく祖母を見て寝ました。
うとうと…
夜、話しかけてきます。
昔の色々なお話、祖母の小学校のお話、これからの僕のお話。
家族は知りませんが祖母とこんな話をしました。
祖母「ごめんなぁ、これから頼むよ」
僕「ん?だいじょうぶだろ!」
祖母「お前しかできんから」
僕「守っていくよ」
祖母「みんな頼むよ」
僕「まあ死んでいいよ」
祖母「ん。」
って言ってか言葉は話せなくなりました。
実はね一番忙しい週末でしたよW
もう12時間もたんかなぁって病院に居たら、
仕事が気になって祖母を残して仕事に戻りました。
(家族が残ってましたので)
満席でした。お客様に
僕「ごめんなさい。遅れまして」
って言ったらあるお客様が激怒しました
お客様「すぐ帰れ!!なんでここにいるんや!!」ってね
でも自分の仕事は終わらせたいと告げ各お客様に挨拶をしました。
スタッフもすぐ帰れって言われたけど帰らない。仕事をしてから
(今はへっちゃらで帰りますW任せられる責任を持ってもらうため)
病院に戻ったわけです。
まぁ遅いわな
ったらね生きてましたw
とりあえず隣で手を握っていたんですが僕も疲れてね…
もう元気になることはないしはよ逝きな?
お別れは済ませたからその時を待ちます。
呼吸が止まっていきます。
30秒・・・1分・・・
隣で母親が寝てて起こしました。
僕「おーい、そろそろな」
母「お母ちゃん!!」
大声で叫んだら息吹返りましたw
僕「もう起こすなてw」
それから2時間後死んだわけですが朝の5時ぐらいだったと思います。
お葬式・・・喪主です
もう大変ですね。
すぐ仕入れに行って、葬儀屋さんと打合せ。
遠方から参列くださる方の宿の手配。
食事の手配。仕事のこと。
もうあんまり覚えていませんが葬儀が翌々日でしたので職場からの行ききをしてました。
終わってしまえばあっけないものです。
翌日出勤して仕込みを終わらせ、休憩時間中FMラジオを聴いていると「トイレの神様」がながれました。
このタイミングは勘弁してくれwww
でも僕が思っていたこと。
悲しいかと言われればそれは当たり前。
でもその日の朝、「うーん!!今日もがんばろー」でした。
今まで色々な本を読みましたが中村天風、ニーチェ、ブッダ
が大好きだったため、心にゆとりがあり起きたことを受け止められることができました。
この時思っていたこと
「おれが元気に生き生きしていたらオバァは喜ぶだろうな」
半年が経ちました
売り上げ順調です。
しかしね、開店当初のスタッフが抜けることになりました。
半年です。涙、理由はわかりません。
初めてのオープンのお店へ希望を持って入ってくれる方はギャップがありますし何より僕の力量不足です。
その頃はもう借金のことがいっぱい頭の中をグルグルと・・・
そんな時にスタッフへのありがとうが足りていなかったと思います。
(ごめんね)
しばらくしてまた募集をかけます。
そしてやってきます。名倉彰秀。
これまた小さな枠で募集をかけてたった一人の募集者。
今はね。獅子丸の店長をしています。
この子はこの先喰快の行き先を変えていくことになります。
ただ、この入社当時のイメージは単なる僕ちゃんでした。
16歳から10年個人の寿司屋に勤めていてこのままでは飲食でご飯食べていけないって思ったみたいw
とにかく良い子というイメージで厳しいの耐えられるのかなぁといった感じ。でもね圧倒的に優れていたのは人のためにする事は自分の喜びであるという感覚を持っていました。
今まで出会った中で一番です。
今でも変わりません。
正直僕より接客下手くそです。
でも仲間に対してそれが突起していました。
いちトップとして学べるものも多くそれよりこんな子が来てくれて嬉しいと思う事の方が今でも強いわけであります。
とにかくなんとかなりました。
そして一年が過ぎた頃
僕はわけのわからない事を言い始めます。
一年後のオープン日
僕「ランチやろうよ」
スタッフ「は?無理でしょ」
はい。無理です。
でもねやりたいもん、やろうよ、ってかやるし。
ということで一年後の6月15日ランチオープンです。
コンセプトも決まっていませんでしたのでとにかく自分がやりたい料理w
ハンバーグ大好き!!
んじゃハンバーグいっぽんで。
そんなんねお客様来るわけないんですね。
1ヶ月が経ちます。
僕はね根本を間違えていました。
そうそうお客様にどう喜んでもらうか!!
思いついたのはこれです。
サラリーマンがお昼から元気に働きたくなる食事を作る事!!
をテーマにしました。
そしたらまずメニューが変わります。
考えたらサラリーマンの方は集団で歩くわけです。
ですからその皆様のご要望に応えなくてはいけないと
(メニューとして)
そこでスタッフにいます。
メニュー数3から10にしよう!!
スタッフ「それは無理でしょう!!」
(お前は馬鹿か?無理に決まってる)が本音だと思うw
僕「いや、やらなきゃ!」
僕にはやらなければいけない理由がありました。
それはランチを始める時、きてくれたパートさんの所得です。
これは今でもいつも思います。
せっかく来てくれたのに赤字続きでランチやめてしまったら
この方はどうなるかって思いました。
意地でもやるんです!!
と説得して始めました。
またまた回らないんですよこれがw
笑っている場合ではありません。
ランチ、サラリーマンの方は時間がないのです。
提供時間が大きくカギを握ります。
ですので僕がやりたい事より、お客様が喜ぶ事。
作業効率を徹底的に改善します。
半年後メニュー数10、提供時間、焼き魚以外10分以内。
でもクオリティを落とさない。
そうする事半年、一日6名〜10名様ぐらいしか来店なくて悩んでいましたが半年経った頃いきなり爆発しました。
12時5分ぐらいになると一気にお客様が見えるんです。
今ではサラリーマンの方、ご家族連れ、女性2名など色々な方に来ていただけています。
ありがたい限りです。
そうそう、また少し話がそれます。
このお話はかなり重要です。
うまくいかない時なぜやるかを追求する事です。
物事の根本を理解すること、これが問題解決の一番手っ取り早い方法です。
喜ばせる!!ただこれだけです。
お客様も、スタッフも、業者様も、大家さんも、地域の方もそして自分も。これができれば絶対うまくいくんですね。
(まだ僕もできていない)
損得・・・夜だけじゃもったいない、売り上げが足りない、
なんて始めた企画がうまくいくわけないんです。
これを今書いている自分にも言い聞かせてます。
中盤に差し掛かったところで(飲食店は敗者復活産業)
一つのテーマに対する言葉。
馬鹿でも阿保でも田分けでも、人お喜ばせることができれば復活できる産業ってことですね。
FBで僕はお客様来てください!!って言いません。
先に先行してお客様のことを考えて喜んでいただけなかったら来ていただけないからです。
戦略かもしれません。でもぼくのFBみて良かった!!って思ってもらえるような記事書きたいわけです。
(書きながら感情的になってますw)
そうしたらね僕が少しでも困った時少し応援してもらえるじゃないですか。
だから本質がみんなの為にが先行して自分に早く帰ってくるのは飲食店と美容師だけなんですね。
これは製造、販売過程が一緒の職業だからです。
ご来店、注文、製造、提供、集金、アフター全部一つの店でしています。
セレクトショップはどうですか?
(自分で作って売って位いるところもあります)
製造が抜けていますね。
農家はどうですか?
販売先をエンドユーザーにすることは難しいですよね。
百貨店、もうお分かりですね。
飲食店は全ての工程をその場で味わい行動できる職業なんです。
阿保だって喜んでもらおう!って思えば全てをコントロールできるんですね。
もう一度だけ、全てを携わって喜んでもらえればご飯たべれるんですよ。
はっきり言って大変です。
でも生きることはそんなもんです。
これを言うと批判は受けますが言っちゃいます。
一日8時間労働で週休2日で皆さんなら誰を喜ばすことができるかい?
今いるスタッフにも辛い思いをさせています。
僕たちがそれを幸せに思えたら、必ず自分に返ってくる!!
馬鹿でもできる!!飲食店は敗者復活産業ひとまず終了です。
飲食店は復活産業パート2をお楽しみに
(また書きたくなったら書きますW)
一ヶ月に渡りありがとうございました。